龍安寺庭園は日本でも、いや世界でも最も知られている庭園としてその名は高い。塀に囲まれた庭園は様々なテーマが内包されているような佇まいで、鑑賞者のインスピレーションは大きく膨らんでくる。石と砂だけの最少の素材で構成した石庭は現代のミニマルアートを思わせ、1500年頃につくられた空間とは思えないモダンな表情をたたえている。
エリザベス2世女王が昭和50(1975)年来日し、龍安寺の縁側で椅子に座って石庭を鑑賞する微笑ましい写真を見た記憶がある。女王は不可思議な表情であったが、その佇まいと空間が妙にしっくり感じられ印象的だった。今、振り返れば「西洋の精神」の象徴的存在と「東洋の精神」の空間が、一瞬交差した歴史的遭遇だったかもしれない。
1.はじめに
戸田芳樹氏(以下、戸田。敬称略) 日本庭園の歴史上、龍安寺の石庭は特別な存在であった。鑑賞者を拒むような怜悧で幾何学的な空間は多くの「謎」を内在しているようだ。それはレオナルド・ダヴィンチの「モナリザの謎」に匹敵する奥行きの深さと知的好奇心がかき立てられるアートだと私は思った。
その謎に多くの研究者達が挑み、それらの成果は出版物として残されており興味がそそられる。そこでは石庭の解釈を何十通りも導き出し、それぞれが意味深い理論であり推論であった。多くの視点から導き出された龍安寺石庭論こそ、この庭園に内包する「庭園とアート」の関係を私たちに示してくれたようだ。
ここでは庭園に対峙してその美の原点に迫り、石庭に宿る意味と表現をすくい上げてみたい。解釈を進めるにあたり、まずランドスケープアーキテクトの広い視野をベースにして3つの視点で解いていきたい。●龍安寺の歴史と庭園の変遷(時間の多義性)●龍安寺の立地と庭園の背景(空間の多重性)●庭園の構成とデザインの解析(デザインの意図と表現)
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2.枯山水とは何か
戸田 枯山水庭園といえば「龍安寺石庭」を反射的にイメージするが、「枯山水」の用語についての知識は曖昧なのではなかろうか。1000年も前から存在していたこの庭園スタイルを歴史を辿りながら振り返る必要があると考えた。現在、「枯山水」は禅の思想を表現する「禅の庭(石庭)」として世界中に知られており、日本文化の誇りである。世界のブランドとなった「枯山水」とは何なのか、その空間に入りデザインを探ってみたい【写-1】。
(1)平安時代の枯山水庭園
「枯山水」は平安時代に書かれた「作庭記」に表記され、時代が下るにつれてその空間は変化していった。
日本庭園の解説書によっては平安時代を「前期枯山水庭園」、それ以降を「後期枯山水庭園」に分類した記述が見られるが、少々解りにくい。一般的な「枯山水庭園」のイメージは、庭園の持つ抽象的な表現が禅に通じ、これに接すれば禅の奥義に近づけると、私たちは思っているのではないだろうか。
ここでは枯山水はどのような思想から生まれ、庭園で何を表現したのか、龍安寺の庭園、「石庭」の歴史を辿りながら進めていきたい。
野村勘治氏(以下、野村。敬称略) 日本庭園の石組は本来、池や流れなど水辺にあり、水に接しない石組を仮山水(枯山水)と呼んでいた。ある意味、枯山水の萌芽といえるが、平安時代の枯山水は庭園の一部を指し、庭園全体の様式ではなかった。これを、前期枯山水庭園と呼称した【図-1,2】。
実際に庭園の様式として枯山水が生まれるのは南北朝時代、夢窓疎石が作庭した西芳寺庭園からであった。